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とりあえず、『書く』
『書く』のだと、自分に訴えなければ書けなくなったのはいつからだろう。
これは『駄文』
これは『偏見』
これは『差別』
これは……。
感情のままに書いていた頃は、何も思わなかった。
いや。思ったと思うけれど、それよりも『書いてしまいたかった』
そうすることで自分の中から一旦吐き出して、自分を見つめることが出来ると信じてた。
今は『ダメ』『ダメ』『ダメ』と私の中でダメ出しが来る。
これは誰にも何も訴えかけない。
これは誰かを傷つける。
これはただの偏見。
これはただ私が傷ついたから書きたいだけ。
書いた言葉が途中で止まる。
存在しない読者がそこにいる。
そこに『私』はいない。
自分の中のもつれた糸がもつれたまま、居座っている。
誰かのためでなければいけないのか?
傷つける誰かを思えば、書いてはいけない事なのか?
目的や意図は明確でなくてはいけないのか?
まるで学校の作文を書くように、書こうとする自分がいる。
目的も意図もない。
ただ書きたいから書いていた私の手足がちぎられて、バラバラに放り出される。
言葉が絡まって、意味もなさずに連ねられている。
綺麗に書こうとすればするだけ、『私』が消える。
そして、『書きたかった事』も消える。
『書きたかった事』はただの『偏見』で『無知』故の言葉でしかない。
それを『知りたい』と思うことさえ、『罪』なのだと突きつけられる。
好奇心は消え、探求心は踏みつぶされ、『言葉』が罪に染まる。
無邪気に『どうして?』と問える時期は短くて
知りたいことも『どうして?』と問えないのだと知る。
無難にやり過ごし、好奇心も探求心も飲み込んで
『黙れ』
と人間が囁く。
そして、窒息しそうな私の首を『早く死ね』と締め上げる。
『書かない事』は私にとって『死ぬこと』だ。
それが『偏見』でも『差別』でも『傷跡』でも『意味のない事』でも
私にとって『書く事』が『生きる事』
だから、書かなければ始まらない。
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