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『二人のウェディングドレス』への違和感
以前、女性同性愛者の結婚式がニュースになっていた。
ニュースの写真は、『二人ともウェディングドレス』
それに対して、「なんだか、うーんと思ってしまった。私の中のイメージと違っていた」と日記を書いてた人がいた。
そこについたコメントが「女性なんだから、ウェディングドレスでいいと思う。どこにも違和感を感じる必要ないじゃないですか」と言ったようなものだった。
……私は日記投稿者の方に何となく共感してしまった。
というか、私自身も結婚式のイメージとして、『タキシードとウェディングドレス』なんてものを想像していたのだ。
別に二人ともウェディングドレスである事が悪いわけではない。
私の中に「ウェディングドレスの二人」というものが存在しなかったのだ。
なので、『ああ。こーいうのもあるのね』という新しい発見をしたような気分と
『自分の中に勝手なイメージが付いていた』という確認ができた。
同時に、『女性ならばウェディングドレス』という感覚を持っていたのがコメントを付けた人なのかなと思った。
もし私にその感覚があったなら、『ウェディングドレスの二人』に違和感は抱かなかったかもしれない。
という事は、もっと言うのならもし、
女性同性愛者の結婚式が
『タキシードの二人』
だったらどう思っただろうとも思った。
たぶん、日記を書いた人もコメントを書いた人もどちらも「うーん。イメージしてなかった」と目から鱗を落とすのじゃなかろうかとも思ってしまった。
私は女性がタキシードを着ようがウェディングドレスを着ようがどっちでもいいと思ってる。
もちろん、男性がタキシードを着てもウェディングドレスでもいい。
それでも『結婚式にはタキシードとウェディングドレス』という固定観念があったことを、女性同性愛者の結婚式のニュースで理解した。
タキシード姿の男性にも化粧
そして、しばらくたった頃さらに斜め上の記事を見つけた。
「僕は結婚式で自分も化粧をしてもらえるものだと思っていた」という男性の記事だ。
衣装はタキシードだったのだろうと思うし、化粧をしたい男性というわけでもないらしい。
性差別に関心のある男性の記事の中で見かけた一文に、驚いた。
確かにタキシードの男性が化粧をしてはいけないという事はないはずだ。
綺麗にしてみた目よく人前に出たいのは男性女性ともに変わらない。
それでも私の中で『化粧は女のもの』という感覚があったんだなぁと思った。
ただ「見た目をキレイにするための化粧」という感覚がある事に始めて気が付いた。
タキシードの男性の化粧……いいなと思ってしまった。
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食人種でも、人の肉はごちそうならしい。
でも、食べるのは誰でもいいわけでもない。
神に近い存在か。もしくは部族外の人間か。
……みたいな事を読んだことがある。
事実は分からないが、要は『自分たちと同じ人間(仲間)』と認識している相手は食べる対象ではなかったのだろうと思う。
殺人も似てるのかもしれない。
人が人を殺せるのは、相手を人間だと思わないからだ。
人間だと思った瞬間に、殺せなくなる。
『人間=自分(もしくは、自分に近しいもの)』だからだ。
痴漢も似たようなものらしい。
痴漢する人間は痴漢する相手を『自分と同じ人間』とは思っていない。
目の前に存在する物体でしかない。
と言ったような言葉をどこかで読んだ。
人間かそうでないかは。
『自分が相手を人間と思うかどうか』でしか、区別されないのだと思う。
「目の前に人間そっくりのアンドロイドがいたらどうする?」
と、聞いたら
「胸をもむ」と返ってきた。
聞いた相手は女性である。
「人間の胸と何が違うのか知りたい」と続いた。
なるほど、これが人間が持つ『加害性』というものなのかと思った。
『知りたい』という欲求は私の中にもある。
それは子供の無邪気な『探求心』にも似ている。
それが、相手にとって『害なすもの』になる事になるのかどうか……を考えるのは、相手を人間と判断した場合だ。
相手を物として判断した途端『自分の行動や行為は害をなすものになるか』という判断が消え去る。
「人間そっくりのアンドロイド」と「人間そっくりのアンドロイドに化けた人間」では
見た目はほぼ一緒だろう。
ただ、それを目にした人間の認識の差で態度が変わる。
そして、それは私の中にもある。
「実はアンドロイドに化けた人間だったら?」と聞き直したら
「え?だったら、別にいい」と返ってきた。
……。
どこで『人間』と判断し、どこで『物』と判断するか。
それは自分の行動が相手にとって『害をなすものかどうか』を考える基準でもあるのだと思う。
物であるものに、どんな害を加えても構わないと人間は判断するのだ。
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物心ついたころ……3・4歳くらいだったと思う。
『鬼』だと思ったモノがある。
それは、大抵、ドライブ中に現れた。
山道を走る車の中。
窓の外を見てると、木々の陰に黒い影がある。……否。
人の姿に近かったような気がする。
それを見つけた瞬間、「あ、お母さんだ」という安心感と恐怖が押し寄せてくる。
次の瞬間にはその感覚を押しのけて
『あれがお母さんなわけがない』
と否定する。
車の中の母を見て『あれがお母さんだ』と自分自身に念を押す。
そして外の存在を『鬼』だと思いなおす。
あれが何だったのか知らないし、見間違いだと言われたらそうなのかもしれない。
だけど、あの頃、私はそんな事を繰り返しながら車に乗っていた。
時には車から降りた場所でもその影が傍にいたことがある。
一定の距離を保って、それ以上は近づかない。近づいても来ない。
私はそれを見つけると、母の傍へと走っていった。
あれは『おかあさん』ではない。これが『おかあさん』だと確認するために。