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空歌童心

『書く』『考える』『楽しむ』

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  • 死に方と死にたい

    『独りで死にたくない』と『一人で死ぬ事』


    『死にたい』という自殺募集者を集めて人を殺す事件は何度か見た。

    個人的には『死にたい』時は一人で死ぬのがいいと思う。
    が、人間の感情としては『死にたい』の裏側には『生きたい』があって、その『生きたい』気持ちが人を求めるのだとも思う。

    集団自殺などは『一人で死ぬのが怖い』とも言われるが、本当にそうなのだろうか?
    誰かと一緒ならば怖くない死などあるのだろうか。
    死は死であり、死に恐怖があるから仕方なく生きている人間の方が多いような気がする。
    誰かと一緒であることのリスクの方が私は怖い。
    相手は自分を殺したいだけかもしれない。相手は本当に自分と一緒に死んでくれるか分からない。殺されないとしても、死ぬまでの経過を観察したい人かもしれない。
    仮に一緒に死んでくれたとしても、相手にも心配してくれる相手がいるかもしれない。
    一人でさえ『途中で発見される不安』があるのだから、誰かと一緒ならばなおの事『発見される可能性』が増える様な気がする。
    色んな想像がかきたてられる。だから、私は『死にたいなら一人』と決めている。


    『一人で死ぬのが怖い』の裏側には『独りで生きているのが怖い』というものがあると思う。
    実際には『独り』だと思いこんでしまっているだけなのかもしれないが、思い込みほど恐ろしいものもない。
    どちらにしろ、他人を求めてる時は『独り』が嫌なのだと思う。それが『死ぬ』目的で誰かに会うのだとしても、『死にたい』わけではない。『独りになりたくない』だけ。
    ただ、死ぬときはどう頑張っても一人だ。そして『独り』では死ねない。死後の処理をしてくれる人間がいる。
    警察を呼んで、死体の処理をしてくれる人間はいるのだ。頼んでなくても遺体放置は出来ない。


    『死に方』

    それでも『死にたい』と思う私は常に「こうしたら死ねるかも」という思いがよぎる。
    が、それは一瞬でどれもイマイチなものしかない。

    自殺で真っ先に思いつくのは
    『首つり』だろうか。
    紐をかける場所と、その強度と自分の体重となど色々考えると…めんどくさくなる。
    さらには死体は美しくない。体内の分泌物を垂れ流して舌が膨らみ……なんてのを読むと、ちょっとな……と私の中のまともな感覚がNGを出す。


    『刃物で手首を切る』というものも見かけるが、実際にはこれはこれで大変らしい。
    大量の出血がなければ死なないので時間がかかる。時間がかかれば発見される確率が上がる。
    確率を上げるにはかなり体が弱っている時にやれば時間短縮が望めるみたいだが
    残念ながら健康体な私には『弱っている身体』が無縁である。
    そして、私の手首にはすでに傷跡に見えるものがある…これをみるとまた傷を増やす気にはなれない。


    『電車(自動車)への飛び込み』
    電車への飛び込みはやろうと思った事がある。
    が、おばさんに声をかけられてくじけた。
    私の住んでいる場所はド田舎である。一時間に一本の電車を待っているうちに気が変わる事もあるし、私のように人懐っこいおばさんに「みかん、どう?」なんて勧められて気が削がれる事もあるかもしれない。
    一時期、都会で暮らしてて思ったのは、ここなら飛び込みやすそうだなという事。
    何本も電車が来るし、誰も他人の事なんて見ていない。「みかん、どう?」なんて勧めてくるおばちゃんなんているはずがない。
    実際、「人身事故で…」なんてアナウンスは頻繁に聞いた。(ド田舎にはアナウンスすらないから遅れてても知りたかったらネット検索して…となる)

    自動車への飛び込みは…私も免許を持ってるので、迷惑をかけるのが忍びなくてできません。


    『凍死』
    真冬になると思います。雪国暮らしです。
    が、寒いのは辛いです。お酒で紛らわせば行ける…とも思いしたが、成人後はあっちこっちふらふらしていて雪国に戻ってきたころにはそれほど『死にたい』とも思わなくなりました。
    でも、選択肢としてはありかなと思ってます。
    ただ、途中で発見されて凍傷で末端をなくすのは嫌です。


    『一酸化中毒』
    七輪と車を用意して……というのが一時流行ってました(?)が、車を棺桶にするのは無駄遣いな気がします。
    雪国なので雪国らしく(?)、大雪で雪に閉じ込められて知らないうちに排気ガスが充満して…なんてのを思い描きますが、そもそも私、車嫌いで自分の車を持ってません。
    車以外の方法がないかなと頭の片隅に置いておくのです。


    『水(カフェイン)中毒』
    時々ニュースで見かける事故(?)です。
    が、どれだけの水やカフェインを摂取すればいいのか見当も尽きません。……確実性に欠けるのでこれも頭の片隅です。


    『餓死』
    とあるサイトで、安楽死を受けられなかった人が餓死を選ぶというのを見かけました。
    意外と具体的に書いてあって、おお…と思ったのですが、やはり苦しいらしいです。
    これも頭の片隅のメモです。


    『OD(オーバードラック……だっけ?』
    薬物の大量摂取は最初から私の頭にはありません。
    理由は病院嫌いだからです。市販品では死に結びつくものを探すのが大変そうだし……。
    でも、進路を決める時、死ぬために薬剤師の勉強をしてみたいと思った事はあります。
    が、そこまでの死ぬ情熱は持ち合わせてませんでした。


    まぁ。なので、私は未だに生きているのですが……薬剤師の勉強をしてたらたぶん私この記事も書いてなかっただろうなぁと思います。



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  • 母親と子供への呪い

    「あたし、おかあさんだから」という歌詞が話題になっている。


    思うことは多々ある。
    多々あるのだが、いろんな人の文章を読んでるうちに
    『ああ。この歌を作った人は「おかあさんだから我慢してるんだ」というメッセージを親から受け取った人』だったんだなと思った。
    そして、そのメッセージを受け取った上で『お母さんを応援しなきゃ』と思っているんだろうなと。
    もちろん、詳しい事は分からないし、私の勘違いかもしれない。



    私も親から『お前の為に我慢している』というメッセージを受け取ってきた。
    親に聞けば、「そんな事はない。あんた達がいて幸せだった」と言うだろう。
    我慢に気が付かないほど我慢してたのだから、親から見た子育ては『幸せ』の一言で済む。


    「あたし、おかあさんだから」が心をざわつかせるのは
    私の親もまた「あたし、おかあさんだから頑張った」を掲げているからだ。
    確かに子育ては大変だろうし、すごいと思う。
    だけど、そこに「母親だから、できたのよ」と言われるともやっとする。

    おかあさんは、いつもイライラして私を叩いてましたよ?

    もちろんそれは、私が小学校に入る前の話。私が小学校に入ったころには母のイライラも落ち着いていた。
    そして、かなり後になってから母はこう言った。

    『あの頃はイライラしてあんたたちをつい、叩いてしまってた。
    特に○○(上の妹)にはひどく当たってしまった。
    ○○(下の妹)は小さすぎて可哀想で叩けなかったし
    あんたは言葉を話すようになってたから、いう言葉を理解する。
    ○○(上の妹)が一番叩きやすかった』

    ついでにここに書いてある妹達とは年子なので、私が2才ならば上の妹は1才、下の妹は0歳児だ。
    子供の性格云々ではない。発達段階で選んだのだ。

    『母親だから頑張れる』
    『母親だから我慢できる』

    その歪みが子供に向いては意味がない。
    子供に向かなくても、ぎりぎりのところまで行く人がほとんどじゃなかろうか?



    『母親だから、子育ては父親と半分』



    そんな歌詞は一欠けらも見当たらなかった。
    結婚するときの誓いの言葉に『苦しい時も病める時も……うんぬん』なんてものがあるらしいけど。
    形だけとはいえ、ホントに形だけだよなぁと子育ての父親不在をみていて思う。
    (子育てに父親がいて当たり前の家庭もあるのだろうけど、社会的にはまだ「おとうさんが子供の送り迎えなの?すごーい」なんて言いそうだし……まだまだだよなぁと思う)



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  • 『許す』と『裁かない』

    昔、知人がこんな事を言っていた。
    「私は、以前、元カレからレイプまがいの事をされたけど
    自分を許すために元カレを許した。
    だって、許せないで苦しいのは嫌だから」

    彼女は自己啓発系の本を読んでいて、「許しなさい」という言葉を信じていた。

    私は彼女の言葉にとても苦しさを感じた。
    『痛い苦しい悲しい』
    そんな想いがたくさん詰まってるように感じた。

    だから思わず
    「許せなくてもいいと思う。
    憎いなら憎いって、言っていいと思う。だって、元カレはそれだけのことをしたのだから」
    と返していた。
    それでも彼女はかたくなに『許す』と言い放っていた。

    ああ……誰だよ。『自分を許せ』なんて言った奴は
    と、どうしようもない気持ちになった。


    私も最初は『許す』という言葉が心地よかった。
    けれど、この言葉には危険もあった。『自分を許す』というのは簡単だ。
    そして、『自分を許すために、他人を許す』という勘違いも起きやすい。
    彼女はまさしくその勘違いの真っただ中にいた。



    許すべきは自分であって他人ではない。
    彼女はその境界線が引けなかった。



    誰かを憎む自分すら『誰かを憎んだまま、許す』
    ……矛盾してると思う。
    どうして、誰かを憎む事を許せるのか。
    人を憎むことは『悪』で
    苦しい事も『悪』で
    痛みも『悪』だ。
    その『悪』を許すという事は『許すべき対象が存在しない』という事になる。


    『許し』は『許されない存在』が存在しなければ、『許し』も存在しない。
    人は相反するものをルールにはできない。
    特にまじめな人間ほど、そんなルールは認められない。


    彼女が陥ったのもそんな矛盾した言葉遊びの渦だったのかもしれない。




    生きる事は許される事かと悩むとき、
    そこには生きる事への罪悪が存在する。
    遊ぶことは許されるかと迷うとき、
    そこには遊ぶ事への罪悪が存在する。

    『許し』を乞う時、そこには『悪』が存在する。



    そのせいなのか、最近の私は
    『ジャッジしない』のがいいのではないかと思い始めてる。
    個人的に英語嫌いなので、日本語で
    『裁かない』だと思ってる。
    これもまた、言葉遊びなのでどっちでもいいのだけど。
    感覚としては『ジャッジ』のような気がする。
    つまり、私は『審判や神』ではない……という意識が大切な気がしている。




    ……。
    『許す』って偉そうなんだよな。
    それが自分に対してであっても、自分の中を二分して『お前、許してやる』ってやってるんでしょ?
    何様だ……と思う。
    許す必要があるものなんて何一つない。

    誰も誰かを裁けないし、自分自身さえも裁きの対象ではない。
    ……でも、人間社会では司法制度があるから、それは社会として必要なのだけど。






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