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昔、知人がこんな事を言っていた。
「私は、以前、元カレからレイプまがいの事をされたけど
自分を許すために元カレを許した。
だって、許せないで苦しいのは嫌だから」
彼女は自己啓発系の本を読んでいて、「許しなさい」という言葉を信じていた。
私は彼女の言葉にとても苦しさを感じた。
『痛い苦しい悲しい』
そんな想いがたくさん詰まってるように感じた。
だから思わず
「許せなくてもいいと思う。
憎いなら憎いって、言っていいと思う。だって、元カレはそれだけのことをしたのだから」
と返していた。
それでも彼女はかたくなに『許す』と言い放っていた。
ああ……誰だよ。『自分を許せ』なんて言った奴は
と、どうしようもない気持ちになった。
私も最初は『許す』という言葉が心地よかった。
けれど、この言葉には危険もあった。『自分を許す』というのは簡単だ。
そして、『自分を許すために、他人を許す』という勘違いも起きやすい。
彼女はまさしくその勘違いの真っただ中にいた。
許すべきは自分であって他人ではない。
彼女はその境界線が引けなかった。
誰かを憎む自分すら『誰かを憎んだまま、許す』
……矛盾してると思う。
どうして、誰かを憎む事を許せるのか。
人を憎むことは『悪』で
苦しい事も『悪』で
痛みも『悪』だ。
その『悪』を許すという事は『許すべき対象が存在しない』という事になる。
『許し』は『許されない存在』が存在しなければ、『許し』も存在しない。
人は相反するものをルールにはできない。
特にまじめな人間ほど、そんなルールは認められない。
彼女が陥ったのもそんな矛盾した言葉遊びの渦だったのかもしれない。
生きる事は許される事かと悩むとき、
そこには生きる事への罪悪が存在する。
遊ぶことは許されるかと迷うとき、
そこには遊ぶ事への罪悪が存在する。
『許し』を乞う時、そこには『悪』が存在する。
そのせいなのか、最近の私は
『ジャッジしない』のがいいのではないかと思い始めてる。
個人的に英語嫌いなので、日本語で
『裁かない』だと思ってる。
これもまた、言葉遊びなのでどっちでもいいのだけど。
感覚としては『ジャッジ』のような気がする。
つまり、私は『審判や神』ではない……という意識が大切な気がしている。
……。
『許す』って偉そうなんだよな。
それが自分に対してであっても、自分の中を二分して『お前、許してやる』ってやってるんでしょ?
何様だ……と思う。
許す必要があるものなんて何一つない。
誰も誰かを裁けないし、自分自身さえも裁きの対象ではない。
……でも、人間社会では司法制度があるから、それは社会として必要なのだけど。
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