"雑記"カテゴリーの記事一覧
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ブログのデザインを1カラムに変えてみた。
もう一つの作品ブログと一緒のデザイン。
本当は2カラムの方が読者には優しいと知りつつ、スマホなどの影響で1カラムサイトが増えているのだとか。
スマホからの閲覧がどうなるのかは知らないのだけれども、1カラムが好きだと思った。
2カラムにしてたのは読者のためで私のためではない。
けれど、これからは自分の好きなようにしてみようと思った。
が、これでは他の記事に飛ぶにも一苦労なので、カテゴリーをトップに持って来られないのカナと思う。
もしくは、こちらはメモ程度の雑記にしてしまって、Bloggerさんをメインにしてしまった方が読者には見やすいのかもしれない。
2019年。私との約束3つ。
- 人の顔色を窺わない。
- 楽しい事をする。
- 迷ったら進む。
結構、難しい。
2つめの楽しい事も、してるようでなんか違う感がいつもしている。
本当にやりたいことは怖くてできない。
失敗したり、ダメだった時を考えると、踏み出せない。
だから少しずつ、『ダメでも進む』を選ぶようにしようと思った。
三つ目の「迷ったら進む」とも通じるケド。
そんな感じで、下書きいっぱいのこのブログ。
下書きの数が減るといいなと思ってる。
具体的にやりたい事。
- 下書きの数を減らす。=このブログの記事を増やす。
- 小説やイラストの公開数を増やす。
- ツイッターと連動させて閲覧者を増やす。
ツイッターとの連動、いつもドキドキしてる。
PVが爆発的に増えるわけでもないのだけれども、なんか怖い。
そんなわけで、今年も少しずつ頑張るのです。
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とりあえず、『書く』
『書く』のだと、自分に訴えなければ書けなくなったのはいつからだろう。
これは『駄文』
これは『偏見』
これは『差別』
これは……。
感情のままに書いていた頃は、何も思わなかった。
いや。思ったと思うけれど、それよりも『書いてしまいたかった』
そうすることで自分の中から一旦吐き出して、自分を見つめることが出来ると信じてた。
今は『ダメ』『ダメ』『ダメ』と私の中でダメ出しが来る。
これは誰にも何も訴えかけない。
これは誰かを傷つける。
これはただの偏見。
これはただ私が傷ついたから書きたいだけ。
書いた言葉が途中で止まる。
存在しない読者がそこにいる。
そこに『私』はいない。
自分の中のもつれた糸がもつれたまま、居座っている。
誰かのためでなければいけないのか?
傷つける誰かを思えば、書いてはいけない事なのか?
目的や意図は明確でなくてはいけないのか?
まるで学校の作文を書くように、書こうとする自分がいる。
目的も意図もない。
ただ書きたいから書いていた私の手足がちぎられて、バラバラに放り出される。
言葉が絡まって、意味もなさずに連ねられている。
綺麗に書こうとすればするだけ、『私』が消える。
そして、『書きたかった事』も消える。
『書きたかった事』はただの『偏見』で『無知』故の言葉でしかない。
それを『知りたい』と思うことさえ、『罪』なのだと突きつけられる。
好奇心は消え、探求心は踏みつぶされ、『言葉』が罪に染まる。
無邪気に『どうして?』と問える時期は短くて
知りたいことも『どうして?』と問えないのだと知る。
無難にやり過ごし、好奇心も探求心も飲み込んで
『黙れ』
と人間が囁く。
そして、窒息しそうな私の首を『早く死ね』と締め上げる。
『書かない事』は私にとって『死ぬこと』だ。
それが『偏見』でも『差別』でも『傷跡』でも『意味のない事』でも
私にとって『書く事』が『生きる事』
だから、書かなければ始まらない。 -
『幸せは自分が決める』
という言葉が好きだ。
ただ、それって『いつでも幸せだ』と言い続けることではないとも思う。
『他人の幸不幸を決めることはできない』という事だ。
私が「不幸せだーーー」と叫んでいたら、きっと周囲は「不幸せな人なのだろう」と思う。
けど、次の瞬間には「チーズケーキ美味しい」と喜んでいるかもしれない。
それを見た周囲は「幸せな人」と思うのかもしれない。
不幸せだと思った時に「不幸せだーー」と、叫べる幸せというのもあると思う。
不幸せでも「幸せ」と言えるのもまた、幸せなのかもしれない。
何が『幸せ』かなんて決めるのは至難の業なのだと思う。
応援される幸せと応援されない幸せ
何でこんな事を書いているかと言うと、
『卑屈で、苦労話ばかりするAさんと、謙虚で、前向きな話をするBさん。
Aさんにどれだけ「そうなるだけの理由」があっても、人がつい応援したくなるのは、Bさんの方』
と、いうのを見かけたからだ。
正直、今の私はAさんだ。
卑屈でイライラして、トゲトゲの言葉を書き殴っている。
別に応援してほしいとか、共感してほしいなんて思っていない。
ただ、自分の中で今が『卑屈でイライラして、トゲトゲしている』時期なのだ。
上記の文章の前には『そんな不幸話を見ている若者たちは暗い気分になるだろう』と、言った読み手の事を考えた記事になっていた。
たしかに、ネットに公開する限りは『読み手』を考えた方がいいのかもしれない。
読み手は読み手で自分で勝手にもっと『幸せになれる記事』を探したらいい。
それだけのことだと思う。
書き手は書き手で、好きに『イライラトゲトゲ発散』したい。
そして、『書きすぎたな』という記事はひっそり削除する。
書いたら消す。
消したら書く。
何も変わらずに残る事はないから、今書ける事を書く。
それが、私の幸せ。